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●文壇とは何か

文壇とは、作家、文芸評論家、雑誌編集長、出版社の編集者など文学・文筆活動を取り巻く人たちのつながりと、その付き合いのことを指します。

文士という言葉が通用した時代には、頻繁に使われた言葉でした。文壇バーなどというものもありました。こうした作家たちの付き合いで、年一回、親睦を兼ねて、出版社の主催で「文士劇」なるものも上演されていたそうです。

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作家の村上春樹は、日本の文壇には馴染めなかったと度々インタビューで答えています。日本的な付き合いを敬遠していたようです。

毎年のように噂されている村上春樹のノーベル文学賞ですが、今回も残念な結果になりました。いずれ受賞するかもしれませんが、原発事故、隣国との領土紛争、政治の混乱、経済の長期不振と日本をとりまく環境が良くないなかで、山中伸弥教授に続いて受賞すれば、どれほど日本人を勇気づけたことでしょう。また売り上げが年々低減している出版界にとっても、良い結果をもたらしたかもしれません。干天に慈雨を待っている関係者は悔しい思いをしたことでしょう。

次回への期待をこめて、村上春樹の作家としてのスタイルが、文壇や出版界に与えた衝撃に触れてみます。

まず注目されることは、初期の長編3部作(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』講談社)や短編などを除くと、彼の代表作のほとんどが書き下ろしであることです。

つまり、文芸誌への連載とか一挙掲載という形式はとられていません(第4作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)以後、すべて長編は書き下しです)。
 
一般的に言って、作家はまず文芸誌に執筆し、それを単行本化するのが通常です。そのプロセスのなかで、さまざまな反応を観察しながら、次のステップに進むというのが通例であるようです。というのも、書き下ろしは、作家にとっても出版社にとっても、売れ行きをふくめて大きなリスクを負うことになるためです。

長編第5作のミリオンセラー『ノルウェイの森』(講談社)がきっかけになったのかもしれませんが、以後の売れ行きが20万部以下になったことはありません(むしろ、それより遥かに多いくらいです)。これは怪物的な作家です。単行本の後の文庫化まで考えると、出版社における村上の比重は想像を超えて大きいと考えて良いでしょう。

その結果、逆説的に「群像」「文学界」「新潮」などの文芸誌の存在があらためて問われることになってしまいました。毎年、何億円という赤字を計上せざるをえない文芸誌に、意義はあるのでしょうか。出版経営者ならずとも、考え込んでしまいますね。

また、文芸編集者の役割も問われることになるでしょう。作家との打ち合わせ、取材、作家への締め切り催促、あるいはカンヅメなどという仕事が、村上春樹の場合、あまり必要ないようです。

もちろん、担当者と連絡をとっているのだろうが、待っているとある日原稿が出来上がるという仕組みらしいのです(編集的労苦が少ないので、村上春樹ほど電子書籍に向いている作家はいないでしょう)。手間暇がかからない、酒の付き合いなどを含めた日常的接触もあまりない。それまでの作家さんとは、全くタイプが異なっていますよね。

 それだけではない。村上はいわゆる文壇との接触をほとんどしていないことでも知られている。たしか、文学賞の選考委員を何ひとつ引き受けていないはずだ。自分が受賞した場合は別だろうが、文学賞のパーティなどに姿を見せたことがない。

また、文芸誌での座談会とか、対談といった仕事もほとんど引き受けていないことでも、村上春樹は特別な存在です。(形になっているのは、河合隼雄、小沢征爾など自分の関心のある相手に限られています)。

ただ、インタビューは受けてはいます。しかしそれも、媒体、インタビュアーがかなり限定的です。つまり、作家、評論家、編集者、文芸記者などとの業界的な付き合いを意識的に閉ざしていると言えます。

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アメリカ文学とは、アメリカ合衆国の文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のことをさしています。

米国文学、あるいは単に米文学とも言う。また、イギリス文学と合わせて英米文学と呼ぶこともある。English literature と言った場合、英国や合衆国に限らず英語による各地域の文学を含むこともあります。しかし現代ではアメリカ人の特異な性格と作品の幅広さによって、イギリス文学とは別の系統と伝統が出来てきたと考えられることが多いようです。

英語によるアメリカ文学の歴史は、1776年に独立してから本格的に始まりました。それ以前の文学史は、ある程度かつての宗主国イギリスに求めることになりますが、現在では移民の記録や日記、詩なども、アメリカ文学の一部として認められており、アメリカ文学の発生点は単純には決めがたいところがあります。

アメリカ文学の最も初期形態は、ヨーロッパ人と植民地の読者双方に対して植民地の良さを褒め称える小冊子や書き物でした。

移民の記録をアメリカ文学の発生点とみなすのであれば、1607年以降のバージニア州移民の記録が重要になります。

ディズニー映画『ポカホンタス』で一躍有名になった、ジョン・スミス(1580年 – 1631年)による一連の著作などであり、現在ではアメリカ文学の一部として考えられています。

このような部類の著者としては、ダニエル・デントン(1626年頃 – 1703年)、トマス・アッシュ、ウィリアム・ペン(1644年 -1718年)、ジョージ・パーシー(1580年 – 1632年)、ウィリアム・ストレーチー(1572年 – 1621年)、ダニエル・コックス(1640年 – 1730年)、ガブリエル・トーマスおよびジョン・ローソン(1674年? – 1711年)がいました。

アメリカの開拓を促進することになった宗教紛争も初期著作の話題になっています。ジョン・ウィンスロップ(1587年あるいは1588年 – 1649年)が書いた日記はマサチューセッツ湾植民地の宗教的基盤を論じています。

ジョン・ウィンスロー(1595年 – 1655年)もメイフラワー号でアメリカに到着した最初の1年間の日記を残しました。その他宗教的に影響力のあった著者としては、インクリーズ・マザー(1639年 – 1723年)や『プリマス植民地の歴史、1620年 – 1647年』として出版された日記の著者ウィリアム・ブラッドフォード(1590年 – 1657年)がいました。ロジャー・ウィリアムズ(1603年 – 1683年)やナサニエル・ウォード(1578年 – 1652年)のような者達は国と教会の分離を激しく論じています。

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作家の筒井康隆は、(てんかん協会による言葉狩りが原因で)断筆して以後、「文壇というものがあるとよくわかった」と語っています。

「去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」「ぼくを中傷することによって、自分が浮上することだけを考えている」と嘆きました。

文学者の中には、嫉妬心が強く、他人の成功や名声を快く思わない者が少なくないのかもしれませんね。そのため、筒井康隆の指摘する足の引っ張り合いなども生まれているようです。それは、知的水準の問題ではなく、文壇という狭い世界の中での人間関係のあり方が問題なのでしょう。